見てられない…
珍映画史・新たなる伝説
邦画における「漫画原作の映画化」において、珍作ということで必ず話題に上るのが「ルパン三世 念力珍作戦」(74年)である。何十年たっても語り継がれるほど難しい題材なのに、それをまた実写にしようというのだからよほどの自信があるのだろうと思われたが、ふたを開ければ念力珍作戦を上回るトンデモ映画であった。
若き大泥棒ルパン三世(小栗旬)は泣く子も黙る大泥棒だが、峰不二子(黒木メイサ)を救うため、せっかく盗んだ大事なお宝を簡単に手放すほど情に厚い男。ところがその優しさを利用され裏切られたばかりか、大恩あるドーソン(ニック・テイト)の命まで奪われてしまう。そんなルパンは信用できそうな次元(玉山鉄二)と組み、さらに石川五ェ門(綾野剛)を呼び寄せ秘宝をめぐる復讐戦に挑む。
キャスティングはどうあれ、「念力珍作戦」はその時代らしさがよく出たコメディとしては悪いもので はなかった。珍作ではあるし、誰もが期待するルパン三世とは大きくかけ離れてはいるが、映画自体は 意外な実力者、といったことでどこか愛されている印象だ。
ところが14年版「ルパン三世」にはそういう愛らしさがない。映画全体が発する自己顕示欲とでもいおうか、「このアクションカッコいいだろう」「このポーズ、格好いいだろう」「このセリフ」「この衣装」「この(略)」と、ものすごい押し出し感である。そして大事なことに、そのどれ一つとして、まったくカッコよくないのである。
北村龍平監督の考える、"クールなもの"、コメディとして笑えるツボ、全部ズレている感じがする。たとえば漫画的演出の最たるものである斬鉄剣が鉄を切る場面、それ自体は別にいい。そこを思いっきり、やりすぎなくらいのトンデモアクションにするのは、中途半端にリアリティを出そうとするより好感が持てるやり方だろう。だがその凝りっぷりをすべてのシーン、すべてのショットでやろうとする必要などない。
すべてを"カッコよく"しようとすると、途端にチープになるのである。たとえば次元がある人物に向けた銃をそらすため、ルパンが銃ではじき飛ばすショットがあるが、いったいなぜそんなことをするのか。「やめとけ、次元」と一言いえば済む話ではないか。それを次元が受け入れれば、二人の信頼の厚さも伝わる。なのになぜこれ見よがしに銃を銃で撃つのか。「キャー、ルパンって銃の腕もすごい、ステキ!」と観客が喜ぶと思っているのか。断言してもいいが、そんな人は一人もいない。
ほかにも飛行機に乗るルパンの顔に外から寄ってみたりと、どうでもいい非現実ショットをこの監督が採用するたび、いいようのないチープ感が積み重なってゆく。ただの会話だろうが歩行シーンだろうが、どんな些細な場面でも鳴りやむことのない音楽をバックにドラマが繰り広げられるやり方はまるで洋物AVのようで、ルパンと不二子が安っぽいアダルト俳優に見えてくる。
独り言を英語で発するメイサ不二子や、韓国・アジア人ばかり出てくる画面の違和感もすごい。ルパンは泥棒の労働組合だか同好会みたいな組織に属していて、たくさんの仲間・メンバーが出てきて泥棒技術を自慢しあう。そんな小栗ルパンは格闘シーンが多数で最大の見どころとなっており、後半は軍隊アクションをたっぷり楽しめる。素っ頓狂なハッカー女が仲間に加わり、すべてのキャラの積み重ねを無視するような大活躍を見せ、あげく地雷原の上で大団円。
どの角度から見てもこれじゃない感満載の、よくぞここまで人はおかしなものを作れるものだと感心させられる驚愕の一本である。おそらくこの映画を作った人は、日本人のルパンファンのために作っているわけではないのだろう。あわよくばアジアで高く売ろう、あっちの都合に日本の観客も合わせてくださいと、そういう傲慢さを感じてしまうのである。
確かにルパン三世は懐の深い作品で、いろいろな話が作れるのだが、14年版「ルパン三世」にはそれでも歴代作品にあった「ルパンらしさ」がほとんどない。センスのない人たちに大予算を与えると、かくもすごい作品が出来上がる。そんな見本といえるだろう。
http://movie.maeda-y.com/movie/01896.htm